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東京高等裁判所 平成12年(日)440号 決定

主文

本件申出にかかる被告人の勾留については、職権を発動しない。

理由

一  刑訴法九七条二項、同規則九二条二項によると、上訴中の事件で訴訟記録が上訴裁判所に到達していないものについての勾留の期間更新、勾留の取消し、保釈若しくは勾留の執行停止、若しくはこれの取消しについては、「原裁判所が、その決定をしなければならない。」としている。これは、右のような事件についての身柄処分の権限を原裁判所に専属させる趣旨と解するほかはない。

二  もっとも、これらの規定には勾留に関する明文がないが、八海事件に関する最高裁昭和四一年一〇月一九日決定(刑集二〇巻八号八六四頁)は、勾留についても、身柄に関する右各処分と同様に、原裁判所が権限を有するとする趣旨の判示をしている。

三  ところで、本件については、平成一二年四月一四日に原裁判所で無罪の判決が言い渡されたばかりであり、現時点では、訴訟記録は当裁判所に到達していない(なお、原裁判所に対する照会の結果によると、当裁判所への記録の到達は五月一日になる予定であるとの由であり、事案の性質や公判調書に対する異議申立て期間などを考慮すると、これ以上早く記録の送付を求めることはできない。)。

四  そうすると、当裁判所は、本件について被告人を勾留する権限を有しないといわなければならない。

五  これに対し、検察官は、(1) 最高裁の前記判例を援用して、裁判所は、無罪判決により勾留状が失効した後でも、勾留の理由と必要があれば改めて勾留状を発付することができ、現に、無罪判決の後で新たな勾留状が発付された実例もある、(2) 本件については、〈1〉犯罪の嫌疑及び刑訴法六〇条一項一号ないし三号の事由があり、しかも、〈2〉不法入国の外国人である被告人については現在退去強制手続きが進行中であるから、もし現時点で被告人を勾留しなければ、将来の控訴審における審理が実質上不可能になり、三審制度を有名無実化することにもなる、などと主張している。

六  (1)の主張について

しかし、所論援用の判例は、一審で無罪とされた被告人につき控訴審が無罪判決を破棄して死刑を言い渡した事案において、原裁判所である控訴審が自ら勾留状を発付した措置を是認したものであって、本件におけるように、無罪判決をした原裁判所が勾留状発付の職権発動をしないとした事案において、訴訟記録の到達していない控訴審が勾留状発付の権限を有するかどうかという論点については、むしろ消極の見解を示したものと考えられる。また、所論援用の実例は、いずれも、訴訟記録が控訴審に到達して実質審理が開始された後のものであるから、本件のような事案についての参考になるものではない。

七  (2)の主張について

確かに、無罪判決に対する検察官の上訴権を認めながら、被告人の帰国をそのまま許すと実質上上訴権の実効を失わせる恐れがあるということは、一般的にいえば、一つの問題点には違いない。しかし、本件においては、控訴審でも被告人の弁護を引き受ける予定の原審弁護人の一人が、その事務所を訴訟記録の送達場所として届け出る意向を表明しているから、控訴審の審理が実質的に不可能ないし困難になるという恐れは大きくない。

のみならず、仮に検察官の主張するような危ぐがあるとしても、そのことは、原判決後の勾留の権限につき、刑訴法及び同規則の明文に反した解釈をすることを正当化するものではない(もし、このような運用が大きな問題であるというのであれば、将来立法によって解決するほかない。)。

翻って考えると、そもそも不法入国外国人の事件においては、第一審で無罪判決が言い渡された場合に、被告人の強制送還により控訴審の実質審理が困難になるという事態は、現行法を前提とする限り容易に予測されるのである。したがって、検察官としては、このような事案においては、第一審の審理に特に遺漏なきを期すことによりそのような事態を未然に防ぐことに万全の意を用いるべきであって、それでもなお検察官の主張が裁判所の容れるところとならなかった場合には、被告人の帰国により控訴審の審理が円滑を欠くことになる事態があり得るとしても、現行法上はやむを得ないものと割り切るほかはない。

八  検察官は、さらに、当裁判所に対し原審から訴訟記録を取り寄せるなどして実質判断をされたいとも主張しているので、あるいは、そのような措置により当裁判所が勾留に関する権限を取得するという見解を前提としているのかも知れない。

しかし、法と規則は、身柄に関する処分の重要性にかんがみ、その権限の所在を、「訴訟記録の到達」という明確な事実により原審と控訴審に分配していると考えられるのであって、その権限が、検察官主張のような一時的な記録の借出し等によって一時的にせよ当裁判所に移動すると考えるのは相当でない。そうではなく、記録の借出しによって一時的に身柄処分に関する権限が高裁に移動すると考えると、その権限が記録の返還とともに再び地裁に戻り、正式は送付とともに再度高裁に移るということになり、実務上煩に堪えず適当でない。

九  もともと、法と規則が、身柄の処分に関する権限を記録の到達の時点で原審と控訴審に明確に振り分けた趣旨は、記録のある裁判所がこの点に関する判断を最も適切にすることができ、実務上も便宜であると考えられたからであろう。まして、本件のように、原審が犯罪の証明がないとして無罪の判決を言い渡している場合に、本案裁判所でもない当裁判所が(この点については一二項参照)、改めて勾留状を発付することが適切かどうかというような微妙な判断を、一時的な記録の借出しによってするのは、実質的にも適切でないというべきである。この点は、勾留等に関する通常の抗告事件において、記録の借出しによって抗告審の判断がされている場合とは、実質的に同一に考えることはできない。

一〇  更に若干補足しておく。刑訴法三四五条は、無罪や執行猶予の判決が言い渡された場合には、勾留状が失効すると規定している。これは、そのような裁判所の判断が示された以上その判断は尊重されるべきであって、ともかく一旦は被告人の身柄を釈放するのが適当であると考えられたからであろう。したがって、例えば、一旦釈放した被告人の身柄を、特段の事情もなく、直ちに再び拘束することができるというような解釈は、この規定を実質的に空文化するもので適切でないといわなければならない。

もちろん、無罪判決により釈放した被告人の身柄は、どのような事情があっても再び拘束することができないというような解釈は、窮屈に過ぎる。しかし、そのようにして釈放された被告人の身柄を再び拘束するためには、再度の拘束を正当化する何らかの事情が必要であると考えるべきであり、前記八海事件の判例の事案はまさにこのような事情のある場合に関するものであった。そして、従前の実務において、第一審の無罪判決の後控訴審が被告人を勾留した事案も、控訴審が審理を遂げ有罪の心証を固めた後のことと考えられるのであって、実質審理もしていない上級審が、無罪判決の直後に記録の借出しによって、再度勾留状を発付した前例は見当たらない。

一一  さらに、本件において検察官は、当初原裁判所に対して勾留状発付の職権発動を促し、これが容れられないとみるや、一転して控訴審に職権発動を求めてきたものである。ところで、当事者が申立権を有しない事項につき裁判所の職権発動を求めたがその発動がされなかった場合には、このような「職権不発動」の裁判に対する上訴は許されないというのが実務の確定した見解である。もし、本件において、検察官の職権発動の求めに応じ当裁判所が勾留状を発付したとすれば、職権発動をしないという原裁判所の判断に対し実質的な上訴を認めたのと同一の結果になり、この点でも適切でない。

一二  なお、念のため付言すると、本件については、訴訟記録が当高等裁判所に未だ到達していないため、現時点では、本案の審理を担当する受訴裁判所(訴訟法上の意味の裁判所)も決定していない。したがって、以上に示した見解は、そのような時点において、本案の審理をすることを前提としていない当第五特別部限りのものであって、当然のことながら、受訴裁判所の判断を拘束するものではない。

(裁判長裁判官 木谷 明 裁判官 本間榮一 裁判官 村木保裕)

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